ふるはしかずおの 絵本ブログ

絵本をちょっと身近に。

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 さらに、見やすく、読みやすいブログに、つとめたいと考えますので、引き続き、ご覧いただければ幸いです。

 

                                        古橋  和夫

ふるはしかずおの絵本ブログ2

 

 

 

『 みんな うんち 』-生命賛歌の絵本

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    『みんな うんち』(五味太郎作 福音館書店)は、うんちをする動物たちの姿を通した生命賛歌の絵本です。

 

     おおきい ぞうは おおきい うんち                 

     ちいさい ねずみは ちいさい うんち               

 

     ひとこぶらくだは ひとこぶ うんち

     ふたこぶらくだは ふたこぶ うんち

     これは うそ!

 

   聞き手の興味をひきだす仕掛けのある書きだしです。

  ぞう、 ねずみ、 らくだの「獣」の後は、 「さかなも うんち/とりも うんち/むしも うんち」です。  鳥獣虫魚ですね。  これで動物の全部がそろいました。

    この絵本の中には、 実に22回も 「うんち」 という言葉がでてきます。

   「 いろんな どうぶつ いろんな うんち 」、 いろいろな 「 形 」、  いろいろな 「 色 」。  いろいろな 「 におい 」 とも言っています。

    この際ですから、「 大きさ 」や 「 かたさ 」 も、 あげてみましょう。

    いろんな 「 大きさ 」、 いろんな 「かたち」 です。

  生きものたち ( 鳥獣虫魚 ) は、 それぞれ自分にあった多様な生活を営んでいます。  食べ物も違います。  棲むところも違います。

 

    止まってうんちをする動物もいれば、 歩きながらする動物もいます。

   「 うんちをしても しらんかお 」 を決めこんでいる動物もあれば、 「 あとしまつ 」 をするりっぱな (?) 動物もいます。

  生活のしかたが違うのです。

   草食動物と肉食動物、  地上動物と水中動物とでは、  きっと、 うんちの 「 かたち 」 「いろ 」  「 におい 」 が違っているに相違ありません。

 この絵本のおもしろいところは、 うんちを通して、 生きものたちの異なる生活が見えてくるところです。

   「 いきものはたべる ( 生きている ) から、 みんなうんちをする 」 のです。

  この絵本のメッセージです。

 

 

スリルがうまれるわけ-人物と読者の関係

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 『マーシャとくま』(ラチョフ絵、ブラトフ再話、うちだりさこ訳、福音館書店)は、ハラハラ ドキドキの絵本です。

 

 森の中で、道に迷ってしまったマーシャ。くまの家に迷いこんでしまいます。

くまは、ここでずっと暮らすようにと、マーシャをおどします。

まわりは、森で、どっちへ行ったらよいか、わかりません。道を教えてくれる人もいません。マーシャは、どうしたら、家に帰ることができるのでしょうか。

 

「かんがえて、かんがえて、マーシャは いいことを おもいつきました。」

 

 マーシャはどのような計画をおもいついたのでしょうか。読者は、その計画を知らされていません。マーシャは知っているのに、「わたし」(読者)は知らないという関係が、想像力を刺激します。

 

 マーシャは、おじいさんとおばさんのところに、おかしを持っていってあげたいと頼みますが、くまは「おかしを およこし わしがもっていってやろう」と言います。

 

 しかし、マーシャは、がっかりするどころか、くまの、その言葉をまっていたのでした。でも、なぜなのでしょうか? 

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 マーシャは、おまんじゅうを作り、つづらのなかに入れました。

 「とちゅうで つづらを あけたりしちゃだめよ。かしのきに のぼって みはっているわ」。(この一言は、おはなしの伏線です。最後のくまの驚きにリアリティをあたえます。)

マーシャは、くまをおもてに出し、その隙に、そのつづらの中に、こっそり隠れました。

 つづらになかに隠れたマーシャ。読者はマーシャと一蓮托生。スリルとサスペンスの読者の体験が生まれます。

 

 そして、歩きつかれたくまが、こう言います・

 

きりかぶに こしかけて、まんじゅうを たべよう。

 すると、つづらの なかから、マーシャが いいました。

 みえるわ みえるわ!

 きりかぶに こしかけちゃ いけないわ。

 おまんじゅうを たべちゃ いけないわ。

 もっていくのよ おばあさんに!

 もっていくのよ おじいさんに! 

 

 この繰り返しが2回ありますが、歌うような調子のリズムがあります。そして、読者である子どもたちにとって、息のつまる時間です。ここで「間」をおきます。そして、この言葉を暗記して、子どもたちの目を見ながら、語るように呼んであげてください。 

 

このあと、くまは、こう言うのです。

「やれやれ、なんて りこうなこだろう!よっぽど たかいところに のぼっているんだな!」(「かしのきに のぼって みはっているわ」と言ったことがここで活きました。)

そして、村にたどり着いたくまは、犬たちに追い払われて、また森へにげていきました。マーシャは、無事に、おばあさんとおじいさんの元へ。

ふたりは、「マーシャを だいて ほおずりすると おりこうさんと、いいました」

 

読者は、スリルを感じながら、おはなしに自然と参加していきます。

マーシャは知っているのに読者は知らない、くまは知らないのに読者は知っているという、人物と読者の関係が、おはなしへの参加をうみだす仕掛けです。

 

 

世界に、あなた、ひとりだけだったら。

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ファンタジーの絵本です。

『世界にパーレただひとり』(イェンス・シースゴール作、アンネ・ウンガーマン絵、山野辺五十鈴訳、偕成社)。

主人公のパーレが、朝、起きると、もう「まどには、お日さまが ぎらぎら かがやいて」います。しかし、誰もいません。家にも、町にも、誰もいないのです。

「世界にパーレただひとり」です。

だから、バーレは、何でもできるのです。何をしても平気です。

お菓子や果物をいっぱい食べたり、バスや消防自動車に乗ったり、テニスのラケットや飛行機のおもちゃも手に入れることができます。

「はいるな」という芝生の中だってへっちゃら。叱る人はいません。

そして、何でも自分のもの。パーレは、欲望のままに、自由にふるまいます。

しかし、物語の後半では、「世界にパーレただひとり」という状況が、全く異なる意味をもってきます。

一人では、シーソーにのれません。映画を映してくれる人もいません。ホテルで、料理を作ってくれる人のいないのです。

「やっぱり、せかいじゅうに ひとりだけでは つまらない」と語り手は読者に語りかけます。読者もなるほどと思うことでしょう。

「ほら、もう こうえんで おともだちと いっしょに あそんでいますよ」。

パーレが、一番のぞんでいたことです。

このおはなしは、主人公パーレの欲望を肯定しながら、最後に、みんなといっしょに暮らすことの大切さや楽しさがわかるようになっています。

 

ところで、「せかいに パーレただひとり」は、夢物語でした。

パーレが、ベッドで目をさますこと自体が、「夢」でした。

夢のなかの世界とは気がつかずに、はじめから、読者は、空想の世界にすっぽりとはいってしまうのです。巧みな手法です。

しかし、この夢(絵本の世界)のなかで、パーレも、読者も、大切なことを体験しました。絵本を読むことの意味についても、教えてくれる絵本です。

 

 

 

「カエルは空を とんでいく」-さかさ唄の面白さ

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   サカナがはらっぱ さんぽして

  カエルは空を とんでいく

  ネズミがネコを つかまえて

  ネズミとりに いれちゃった

  いたずらギツネの きょうだいが

  マッチで海に 火をつけた

  海はめらめら もえあがり

  あわててクジラが とびだした      

  「はやくはやく しょうぼうたい! 

   たすけておくれ しょうぼうたい!」

・・・・・・・

 

チュコフスキー作、ヤールブソヴァ絵、田中潔訳『めっちゃくちゃのおおさわぎ』(偕成社)の一節です。

「サカナがはらっぱ さんぼして/カエルは空を とんでいく」というナンセンスの面白さがあります。

空をとぶことのできない「カエル」に空を飛ばせ、ネコを捕まえることのできない「ネズミ」にネコを捕まえさせ、燃え上がることのない「海」が燃え上がります。

「さかさ唄」と言いますが、それは「〈イ〉なる物に〈ロ〉なる物の機能を与えたり、その逆をおこなったりする遊び」です。

また、当然のことですが、「カエルは空を飛ばない」「ネズミはネコを捕まえない」という常識が、子どもの側にあって、はじめてこの逆転が楽しめます。

 

チュコフスキーは、こんなことを言っています。

「こどもが大きなものは強く、小さいものは非力であるという関係をつかみ、動物は大きければ大きいほど強いということを、はっきり知ったと仮定してみましょう。この原理が完全に明瞭になったとき、こどもはこれをもてあそぶようになります。このお遊びの内容は、直接の関係を逆の関係におきかえることにあります。つまり、大きいものに小さいものの特徴を、小さいものに大きいものの特徴を与えるのです。

            チュコフスキー、樹下節訳『2歳から5歳まで』理論社-

 

みなさんのお子さんも、「ブタが空を飛んでいる」というようなさかさ唄を遊んでいるでしょうか。

また、絵本の文章は、リズミカルな調子で、音楽的な要素に富んでいます。ユーモアとともに、この絵本の魅力のひとつです。声にだして読んでみてください。

 

『くだもの』-語り手と聞き手の対話

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 平山和子さんの素敵な絵本、『くだもの』(福音館書店)です。

   すいか  さあ どうぞ

   もも     さあ   どうぞ

   ぶどう   さあ   どうぞ

     ・・・・・・

   ばなな  さあ どうぞ

   ばななのかわ むけるかな?

   じょうずに むけたね。

 

  絵本を読みながら、果物を食べるまねをしている子どもも、いることと思います。

  さて、絵本のなかで、「すいか さあ どうぞ」と語っている人物がいます。

  この人物を、「語り手」といいます。

  ところで、この語り手は、誰にむけて、「さあ どうぞ」と言っているのでしょうか。

  文章を読むかぎり、まったくわかりません。この相手が誰なのかを意識して読んでみますと、謎ときのおもしろさがあります。

   しかし、とにかく、このように呼びかけられている人物がいます。この人物を、いま「聞き手」とよんでおきます。一般に、「聞き手」はおはなしに顔をだしませんが、「あなた」や「きみ」と呼びかけられているときがあります。

     読者は、この「聞き手」を意識することなく、直接、自分に語りかけられた言葉として聞くのではないでしょうか。

   しかし、この絵本の場合、「聞き手」が描かれています。最後に登場した女の子でした。聞き手は、絵で表現されています。

  ですから、最後のページに、「聞き手」の女の子が描かれていることに、意外な感じをもつのではないでしょうか。

  読者は、自分に向けて、「さあ どうぞ」と、言われているとばかり思っていたのに、

  自分ではなく、女の子に向けられていたことを、最後になって発見します。

  この結末は、複雑で微妙な感情体験を生みだすことと思います。 

  「この女の子は、わたし」と言う子ども(読者)もいることでしょう。

 

   食べてみたい果物が、リアルな絵で描かれていて、読者を引きこむ力のある絵本です。

   ひとりでも、楽しめますが、親子で、対話しながら、読みたい絵本です。

 

 

『きんのさかな』-見えないことが見える世界

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 ロシアの作家、プーシキンの民話的なおはなし、『きんのさかな』(ヴェー・コナシェビチ画、宮川やすえ訳、ほるぷ出版)です。

 あるとき、貧しいじいさんは、きらきらひかる金のさかなを釣り上げます。

 「おじいさん わたしを うみに はなしてください。おれいは なんでも いたします。 ほしいものなら なんでも さしあげます」と、金のさかなは、助けを求めました。

 じいさんは、言います。「おれいはなんどは なんにも いらねえ、あおい うみで おもいっきり およぐが いいよ」。

 しかし、ばあさんは、「たらいでも もらって くれば よかったのじゃ」と、じいさんを なじりました。

 じいさんは、青い海にもどって、「たらいがほしい」と、金のさかなに頼みます。

 「しんぱいしないでおじいさん。あたらしい たらいを あげますわ」。

 「たらい」が実現しますと、ばあさんの欲は、ますますエスカレート。

 今度は「いえをたててくれとたのんでみろ」と、じいさんに言いつけます。海は、どんより濁っています。

 その家も実現すると、こんどは、「貴族のおくさま」になりたいと言いだします。海は、ざんぶざんぶ、騒いでいます。

 「女王になりたい」といった欲望も、実現しますが、もう、青い海は、まっくろく、濁っています。

 そして、最後に、ばあさんが、金のさかなを召使にして、「海の女王」になりたいと言ったとき、海は、嵐で、まっくろになりました。

 さかなは、もうなにも言いませんでした。そして、深い海の底に消えてしまいました。

 じいさんは、しょんぼり、ばあさんのところに帰ります。

 帰ってみますと、以前のどろかべごやと壊れたたらいがあるだけでした。

 人間の欲の深さが、海の色や嵐の海によって、象徴的に表現されています。

 心のなかの欲望は、見えませんが、見えない心が、ばあさんの言動や海のすがたで、はっきりと見えるようになっています。

 フランスの文学史家、ポール・アザールは、よい本とはなにかと聞かれて、こう答えていました。

 「特にわたしが愛する本はというと、それは、あらゆる認識のうちで最もむずかしいが、また最も必要な認識、つまり人間の心情についての認識を与える本である」。